『ROMA/ローマ』
第91回アカデミー賞(2019年)
★【監督賞】
★【撮影賞】
★【外国語映画賞】
引用:NETFLIX
監督:アルフォンソ・キュアロン
製作:ガブリエラ・ロドリゲス、アルフォンソ・キュアロン、ニコラス・セリス
製作総指揮:ジェフ・スコール、デヴィッド・リンド、ジョナサン・キング
脚本:アルフォンソ・キュアロン
撮影:アルフォンソ・キュアロン
美術:エウヘニオ・カバレロ
衣装:アンナ・テラサス
編集:アルフォンソ・キュアロン、アダム・ガフ
キャスト:ヤリッツァ・アパリシオ、マリーナ・デ・タビラ、マルコ・グラフ、ダニエラ・デメサ、カルロス・ペラルタ、ナンシー・ガルシア、ディエゴ・コルティナ・アウトレイ
これは良い映画でしたね〜。
ただ、アレなんですよね。
普段シネコン(イオンとかの商業施設の中にあるスクリーンが沢山あるタイプの映画館)で上映されてるような作品しか観ないという人にはちょっとアレかもしれないんですよ。
まあ言ってしまうと、地味なんですよ、この映画。
もうね、シネコンで上映されてるような娯楽作と比べると、とにかく地味なんですよ。
でもすごく良い映画!
とある一家とそこで働くお手伝いさんとの生活や関係性の変化を描いた作品です。
しかも画面はモノクロ(白黒映画)だし、ハリウッド映画のようなハッキリとした物語もなくて、まるでアート映画のような雰囲気すら漂わせる作品なんですよ。
しかも言語が英語じゃなて全編スペイン語に、場合によってはミシュテカ語という先住民の言葉です。
そして僕らからして有名なキャストは誰1人出ていません。
だからぱっと見は地味に見えるんだけど、実はその中にはとても映画的な豊かさと暖かい「まなざし」が詰まった作品で、観終わったらなぜか自然と感動しているんですよね。
しかし普段あまりこの手の映画を観ないような人がなんの予備知識も無しに観るよりは、この作品が「誰の、そしてどんな想いが込められて作られたものなのか」ぐらいは最低限知っておいた方が絶対に良いと思います。
めんどいから、いきなり観てもいいかって?
もちろん、それでも全然良いと思います。
そこはやっぱ好きなように観て欲しいですから。
でもそれで、アカデミー賞で話題になったからとりあえずで観てみたけども「なんか退屈だった」「つまんね」で終わってしまったらもったいない作品だと思うんで出来ればこの記事を読んで見所をなんとなく掴んでから観賞して欲しいですね。
そこまで長くならないようになるべく紹介したいと思うんで、是非。
しょうがないな、って?
ありがとうございます!
※目次の中の項目をタッチするとそこから読めます
あらすじのような概要
70年代初頭、政治的混乱に揺れるメキシコ・シティが舞台で、割と裕福そうな中産階級の家で住み込みの家政婦として働いているクレオという若い女性が主人公です。
朝早くから夜遅くまで家事や家の子供達の世話に追われる生活や、恋人のフェルミンとの束の間の楽しみと休息を、そして雇い主の一家との関係性の変化をモノクロームの向こうに鮮やかに描いていくんです。
しかし、文字で書いてみると、ほんと地味ですよね。
家政婦は毎日大変ですよ〜って、これだけの話ですからね。笑
でも、映像や音で丁寧に丁寧に描くと、これがちゃんと感情のこもった素晴らしい作品になるんだから映画ってやっぱすごいんですよ。
主な登場人物&キャスト
● ヤリッツァ・アパリシオ
引用:NETFLIX
劇中では田舎から出てきた住み込みの家政婦で先住民の若い女性クレオを演じています。
メキシコの女優さんでこの作品で女優デビューを果たし、なんと今まで演技経験のなかった彼女が初めての映画でアカデミー賞を始め様々な賞にノミネートされました。
先住民の両親を持ち、父親はミシュテカ、母親はトリケ族です。
● マリーナ・デ・タビラ
引用:NETFLIX
劇中では家の主人である夫アントニオの妻ソフィアを演じています。
メキシコの女優さんで、舞台の世界でキャリアを積み、メキシコ監督の映画にも出演しています。
この作品の演技が評価されるアカデミー賞の【助演女優賞】にもノミネートされ国際的な知名度を得ました。
● フェルナンド・グレディアガ
引用:NETFLIX
劇中では男性的、父権的な家の主人アントニオを演じています。
● ホルヘ・アントニオ・ゲレーロ
引用:NETFLIX
劇中ではクレオの恋人である無責任な男フェルミンを演じています。
ある意味、体を張った演技をします。
観る前に知っておくべきこと
監督について(重要)
とにかくこの映画、まずは監督のことを知るのが1番早いです。
じゃあそれで誰なのかと言うと、アルフォンソ・キュアロンという監督です。
代表作は『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』や『トゥモロー・ワールド』、そしてなんと言っても『ゼロ・グラビティ』では第86回アカデミー賞に10部門ノミネートされ、その年の最多の7部門を受賞してますからね。
ちなみにその時にも【監督賞】を獲得してます。
つまり今や作品を作れば注目されるような映画監督なわけです。
それで、なぜこの映画を楽しむためにはアルフォンソ・キュアロン監督を知るのか1番早いかと言うと、この映画ってキュアロン監督のもの凄く個人的な作品なんですよ!
具体的にはこの映画の舞台となる家や設定って、監督の子供時代のことなんですよ。
ちなみにどれぐらい個人的な作品かと言うと映画で出てくる内容の9割は事実とのことだからすごいですよね。笑
監督もインタビューなどで色々なところで言ってますが、「今までの作品とは違い、1番自由に作った」と言ってるぐらい監督個人の様々なものがダイレクトに投影されてるんです。
だから、この映画を知るには画面上での物語や展開などだけを見て追って考えるよりもキュアロン監督がどんな想いを込めて作った映画かを知るのが1番早いんじゃないかと思います。
家政婦はいた!
なんですか?
全然、タイトルのそれ、全然だよ、って?
いいじゃないですか、自分でも分かってますよ…ほんの出来心ですよ…!
えー、はい、無かったことにして進みます。
この主人公のクレオという家政婦さんは本当にいた人なんですよ。
実際にはリボリアという名前で、キュアロン監督が物心ついた頃からすでにその家で働いていて、ずっと身の回りの世話をしてくれていたんです。
家政婦とかお手伝いさんとか、今となってはなかなか馴染みはないんですけど、様々な理由で田舎から都会の少し裕福な家へ10代の女の子が住み込みで働きに出るというのは昔は割とよくある事だったようですね、それはメキシコだけじゃなく日本もです。
リボさんは子供達にとても愛情を込めて接してくれて、子供の頃のキュアロン監督も強い絆を持つことが出来たと言っています。
ちなみにこの映画の家政婦のクレオに"ヤリッツァ・アパリシオ"をキャスティングしたいくつかの理由の1つに「リボさんとルックスが似ていたから」というのがあるそうですよ。
冒頭クレオが床を掃除してる様子、気持ちまで下を向いている
引用:NETFLIX
メキシコの階層社会
この映画の中で出てくる家は、白人の家族とその世話をする先住民のお手伝いさん達が住んでいます。
白人の御主人様に使える先住民という、いわゆる階層がこの家の中にはあります。
そして、その階層の構図というのは1つの家の中だけの話じゃないんですよ、メキシコという国全体に階層社会として根付いてしまってるんです。
かつてメキシコの地で栄えていたアステカ帝国をスペインが滅ぼし、そこからメキシコは長い間スペインの植民地でした。
元々あった先住民の文化の上に、スペイン人が持ち込んだ白人文化を上塗りされて今につながるような独特なメキシコ文化になっていったわけですが、メキシコが独立した後も文化と共に当然のように社会的な階層も残ってしまったんですね。
とは言えこの映画はそういう問題が声高に描かれることは決してありません、なのに背景として浮かび上がってくるんですよ。
子供の頃のキュアロン監督の記憶と若かった頃のリボさん(クレオ)の記憶を丁寧に描いたら必然的に階層社会の当時の混乱した状態が浮かび上がってくる、だってそれが事実なのだから、その物言わぬ説得力がこの作品のすごいところです。
そしてそれはキュアロン監督がこの映画を作ろうと思った大きな理由にもなってるんです。
なぜ今この映画を作ったのか
という質問に対して、「歳だからかな」とインタビューで答えてたのにはちょっと笑いましたね。
まあ、つまりいつのまにやら歳も50を過ぎて映画監督としてそれなりのキャリアを積んできてふと立ち止まってみた時に自分は誰でどこから来たのか、あらためて自分自身と向き合うために自分を形作ったルーツを振り返るために作られた映画なんですよ。
そのルーツを辿って行き着いたのがキュアロン監督が子供の頃に住んでいたメキシコシティの家での生活だったんですね。
ちなみに『ROMA/ローマ』というタイトルですが、これはあのイタリアのローマではなく、キュアロン監督が子供の頃住んでいたメキシコシティのコロニア・ローマ地区のローマから名付けられています。
そのキュアロン監督が子供の頃のメキシコ、1960年代後半から70年代初頭のメキシコというのはすごく政治的に混乱してる時代なんですよ。
一党独裁とも言える状態が長く続いたことで民衆の不満が溜まった状態に経済格差の広がりやそこに目を向けさせないための人気取りとしてオリンピックやワールドカップを開いたことで火が付いて政府と民衆が激しく対立してました。
その対立が極に達するのが1971年に起きた“コーパス・クリスティの虐殺”いわゆる「血の木曜日事件」で、僕はこの映画を観るまではメキシコでそんな事が起こっていたなんて知らなかったんですが、その日、政府への反対運動をしていた学生などが120人近く殺害された事件です。
この映画でも「血の木曜日事件」と思われる出来事を目の当たりにしてしまうというショッキングなシーンがあるのです。
ちなみにもう少し調べたら(はい、Wikipediaですけど?)1968年にも「トラテロルコ事件」と言われるこれまた軍や警察組織による学生や民間人への3、400人規模の大虐殺があったというから、ちょっとびっくりしましたね。
(しかも信じられない事にメキシコオリンピックが開会する約10日前に起きている…)
それぐらい社会が混乱していた時代のメキシコシティに暮らしていながら、また、キュアロン監督の家族も両親の離婚で崩壊しながらも、子供の頃の自分を何不自由なく支えてくれた2人の女性について自分のルーツを確認する中でキュアロン監督は思いが至っていきます。
母親と家政婦のリボさんですね。
キュアロン監督は色々な事を知り大人になった今振り返ると、「子供の頃はメキシコの階層社会や先住民のこと政治的なことなど全く何も知らずに無邪気に暮らしていた事、その無邪気な暮らしの土台には白人という守られた特権階級があった事など考えもしなかったんだ」とインタビューで言っています。
キュアロン監督は、子供の頃の自分には分からなかったけど、彼女たちにも母親として、家政婦としての顔以外に1人の女性として1人の人間としてあの時代を生きてきた辛さや葛藤があったはずだと考えたんですね。
だから、今は高齢となったリボさんに何度も何度も話を聞きに行き、何度も何度も自分の記憶もほじくり返し、何度も何度も自分と向き合う、その作業はとても大変でキュアロン監督はこの作品の脚本を書き上げるまでに2年以上かかったそうです。
そしてやがて映画を完成させるわけですが、自分とひたすら向き合うという苦行に投げ出す事なくやり遂げたその原動力の大きな1つは「罪悪感」だとキュアロン監督はインタビューで言ってるんですよね。
当時は無条件に愛情を注いでもらっていた立場、そして今となっては振り返って話を聞いて「知る」だけしかできない事への「罪悪感」。
この映画を観ると、その「罪悪感」が何かまるで立ち入り禁止のロープを張ってるかのような映像の独特な“距離感”、後になって「知る」ことは出来てもその当時に何かしてあげることは決してできないという部分。
そして一方では、大人になり映画作家として成功した自分が今してあげることの出来る最大限の敬意。
それらが入り混じった映画となってるんです。
モノクロなのに新しい、独特な世界
モノクロ映画というと、白と黒!という感じでコントラストが強調されたような画面を思い浮かべる人も多いかもしれないですが、この映画のモノクロというのはそういうのとはちょっと雰囲気が違うんです。
観た人なら分かると思いますが、画面の全てが凄く鮮明に映し出されてますよね!?
まずこの映画は65ミリフィルムのカメラで撮影されてるんですよ。
フィルムで撮影するにしてもそれより小さい35ミリフィルムが割と一般的なんだけと、それよりも大きな65ミリフィルムを敢えて選んでいます。
それは解像度の高さ、つまりすっごい高画質ってことですね。
だからほんとに細かな質感とかも潰れることなく映像に収められてます。
しかも被写界深度が深い、と言うのは手前にあるものや奥にあるもの全部にピントが合ってる状態で、つまり画面の隅々までバッキバキな映像ということです!
それなのにこの映画、モノクロ作品なのが面白いんですよね。
65ミリフィルムによって白と黒の間にあるグレー部分の色味のとにかく幅の多さが画面上にバキッと表現されてるんですよ。
ちなみにフィルム撮影にモノクロときたら昔風のクラシカルな印象ですが、実はCGや合成などデジタル技術を駆使して鬼のような調整の元に完成された映画なんです。
特に光に関しては、この映画にリアリティを与えてくれるパッと見本当に自然的としか言いようのない光も、「僕たちが普段見ているカラーの世界じゃないモノクロの世界なのにまるで自然に感じられる光」という調整にとても気を使っていて、デジタルで合成処理をしたり組み合わせたりしてます。
そうやって作り上げられたバチっと全てが鮮明なキュアロン監督のモノクロは、例えば第84回アカデミー賞作品賞に輝いた『アーティスト』の古典的な味わいのモノクロと、同じモノクロ映画でも方向性が全く違うというのも面白いんですよね。
どちらも作品のテーマと方向性がマッチしてますからね。
どこまでも鮮明な美しいモノクロ
引用:NETFLIX
なぜモノクロ映画なのか
なぜわざわざモノクロ映画にしたのかって?
確かに素朴な疑問を感じる人も多いですよね。
なんとなくオシャレそうだから?
いやいやそんな訳ないですよ。笑
ちゃんと、明確な理由があるんだけど、その前にあの独特なカメラワークについても触れておきたいですね。
この映画は登場人物をクローズアップで映すシーンはほとんどありません。
むしろ登場人物達から少し離れた、常に一定の距離を置いて撮影してるんですよ。
あと、カメラの動きですね、ほぼ人の目線と同じ高さで水平方向にしか動かないという非常に独特なカメラワークになってます。
ここで最初の疑問に戻ります。
なぜモノクロ映画なのか。
なぜこの映画の画面内では登場人物から常に一定の距離を置いているのか。
なぜ、水平方向にしかカメラが動かないのか。
全部同じ理由なんですよ。
それはキュアロン監督の過去の思い出の世界だからです。
何も知らなかった子供時代とは違い大人になり色々な事を知り、自分のルーツを探る中でもまた色々な事を知る、そして自分を形作ってくれて人達の苦労に思いが至る。
しかし、知ることは出来ても結局は何もしてあげることが出来ない過去の世界。
つまり、ただ見ていることしか出来ない世界。
キュアロン監督から見る過去の光景を表現してるんです。
だからモノクロなんですよ、だから登場人物から常に一定の距離を置いてるんですよ、人の目線の高さの水平にしか動けないんですよ。
キュアロン監督自身も「幽霊みたいになって過去へ戻ったような感じ」とインタビュー言っています。
しかもキュアロン監督自身がカメラを撮影し、アカデミー賞の【撮影賞】まで受賞してるんですよね。
本当は監督の盟友でよくタッグを組むエマニュエル・ルベツキという撮影監督が今回も撮影を担当する予定ですだったのがどうしてもスケジュールが合わなくて参加できず、急遽キュアロン監督自身でカメラを回して撮影しすることになったんだけど、たまたまそうなったとは言え今回に関しては絶対にそれで良かったと思いますね。
まさにキュアロン監督が自分で本当に過去を覗いてるという構図がもたらす説得力、その目線の映像を僕らも味わうことができるのです。
そこが重要で、この作品はキュアロン監督がひたすら過去を見る、まなざしの映画と言えるんです。
この映画に込められたまなざし
この独特なカメラワークとモノクロの世界観は、過去をただ見ることしか出来ないキュアロン監督の目線と言いましたね。
いくら過去の事を描くとはいえ映画ですよ、例えばもっと登場人物の内面や心情にフューチャーするような入り込むような作りだっていくらでも出来たのに敢えてそれはしないんですよ。
自分の過去ですよ、今の自分をかたち作ってくれたリボさんや、母親など、何か思わず手を差し伸べたくなるじゃないですか。
しかし、幽霊のようにただ見るだけしか出来ない自分という枷を設けて映画を作ってるんですよ、自分の過去、自分のルーツにどれだけ真摯に向き合ってるんだキュアロン監督は…!と思わずにはいられないです。
これはこれで、人知れず辛い部分もあったと思います。
でもね、たとえ見るだけしか出来なくても、そのまなざしの変化で伝えれることもあるんです。
カメラは人物から距離を置いて水平にしか動かないと言いました。
でも実はこの映画の中で例外的に水平方向じゃなく上下の方向、または人物に寄るというショットが数回出てきます。
もちろん、その全てがキュアロン監督の過去を見つめる「まなざし」の変化にとって重要な意味があってやっていることです。
ちゃんと変化の節目節目でそういった例外的なショットが出てくるようになってるんですね。
例えば、上下方向で言えば、最初ですね、映画のオープニングは「下」を向いたショットから始まります。
主人公の家政婦のクレオが床のタイルを掃除していて、タイルに張られた水に反射して写った空に飛行機が飛んでくるところでROMAというタイトルが出てくるシーンです。
この映画って、順撮りで撮影されてるんですよ。
順撮りとは、物語の進行通りに順番撮影していくことです。
普通そうなんじゃないの、って?
そうでもなくて、順撮りの方が珍しいんですよ。
映画というのはキャストやスタッフのスケジュールや予算や日数など諸々の事情で撮れるシーンから効率よくまとめて撮影していくのが普通なんです。
つまり順番はバラバラなのが普通です。
だから、さあ今日から映画の撮影を始めますという時にいきなりクライマックスやラストシーンから撮影することも全然珍しくないんですよ!
でもこの映画は順番に撮影することに意味があって、要はキュアロン監督が自分の過去を振り返ったり、リボさんに色々な話を聞いたり、それによって自分のルーツが確かなものになっていく様子をこの映画では「まなざしの変化」という形で僕らも共有できるようになってるんです。
だから最初は下を向いたショットから始まるんです。
まだ何も知らない僕らにとっては床のタイルの犬のうんこを掃除するただの家政婦さんだから。
そしてその家政婦のクレオもどこかうつむいたような印象で、監督によればモデルになったリボさんも当時はよく下を向いていたそうです。
そして中盤ではクレオが恋人と過ごす時、ここでも距離を置いた水平方向ではなく例外的にカメラが顔に寄っています。
家政婦としての存在ではなく1人の女性としての顔を持つことを知る意味でも、彼女の顔にカメラが寄るということは重要なんです。
そして、クレオにとある悲劇が起こった後にも、座ってうつむく彼女の顔にカメラが寄っています。
あの頃、キュアロン監督含め子供達には見せていなかったクレオの痛みを知ることになる重要な場面です。
さらに終盤、車の後部座席に座るクレオの穏やかな表情にカメラが寄っています。
海で溺れそうになっている子供達をクレオが身を呈して助けた後です。
つまり波によって洗われた「ザ・洗礼」とも言えるシーンの後の表情です。
もうここまで観たのなら、この時クレオがどういう存在になったのか、監督のまなざしの変化のどういう節目の場面なのかは感じとれますよね。
そして最後、上下方向で言うところの上方向へ初めてカメラが動いていきます。
そこには洗濯物を手に階段を登るリボさんが映されています。
そして今度は本物の空に飛行機が飛んできたところでROMAというタイトルが出ます。
これは映画の1番最初と1番最後、つまり変化のスタートとゴールが完全に対となる構成になってるんです。
この映画を観終わる頃には、キュアロン監督のクレオ(の元になったリボさん)へのまなざしが下から上へと変化して過程をまるで自分のことのように感じれるんじゃないでしょうか。
「変化」とは下と上のあいだ、黒と白のあいだ、無知と理解のあいだ、そこでこそ起こるものなんじゃないでしょうか。
この映画は真っ二つにすることのできない「あいだ」を描いてますね。
そして、その過程を描き切るためにキュアロン監督はこれまで培ってきた映画の経験を大いに活用してるのです。
本作屈指の名シーン 引用:NETFLIX
キュアロン監督といえば
おそらくアルフォンソ・キュアロンといえば、『ゼロ・グラビティ』での宇宙を舞台とした徹底的に作り込まれた圧倒的な映像体験を覚えている人も多いと思います。
なので映像作家的なイメージを持っている人がも多いかもしれませんね。
確かにそうで、作品ごとに毎回盟友ルベツキ撮影監督と共に映像にこだわっていて観客に驚きを与えてくれます。
なので、前作、前々作と、映像的にトレードマークとなるようシーンが印象に残るSF映画だったので、この『ROMA/ローマ』は意表を突かれましたね。
ちなみに映像で1番の特徴は「長回し」と呼ばれる撮影方法で、カットを割らずにずーっと撮り続けるんですよ。
その間、観てる人の緊張感も持続すると一般的には言われています。
ちなみに複雑なシーンになればなるほどめちゃくちゃ「長回し」は大変です。
キュアロンは、その「長回し」を好んで取り入れる監督でもありますね。
あと、キュアロン監督のここ何作品か「水」というのがすごく大事な役割を果たしてますね。
「生と死」や「内面的な生まれ変わり」や「再生」を示すような場面、そこには必ず「水」に関係する何かがあります。
そしてキリスト教的なモチーフや背景を感じさせる演出や表現がどの作品にもありますね。
あと、女性が重要な役割を果たしているのも多くのキュアロン作品に共通するところです。
強い女性、無責任な男に振り回される女性、女性を通しての「死」と「再生」など、キュアロン作品には欠かせないテーマの1つとなっています。
そして、じゃあこの『ROMA/ローマ』はどうなのかという話なんですが。
原点であり集大成
これが面白くて、さっき言ったいくつかの主な要素はもちろん、それ以外の作品の要素も沢山入っていて、これでのキュアロン作品のほとんどの何かしらの要素が入ってるんじゃないか?と思ってしまうような最新作になっていたんですよ、この『ROMA/ローマ』という映画は。
この映画はキュアロン監督が自分のルーツを確かめるための作品だということは説明してきたと思いますが、子供時代の暮らしの中に今のキュアロン監督を特徴付けるいくつもの要素があったことが分かります。
ああ、原点はここだったんだな、と。
中でも今のキュアロン監督につながる1番大きなきっかけは、劇中で家の子供達がクレオに連れて行ってもらって映画館に『宇宙からの脱出』というアメリカ映画を観に行くところですね。
キュアロン監督は当時この映画を観に連れて行ってもらったことで、自分も映画監督になりたいと思ったと言ってるんですよ。
つまりそれだけ取ってみても家政婦のリボさんがキュアロン監督に与えた影響の大きさが分かります。
しかもその時観た『宇宙からの脱出』という映画は、『ゼロ・グラビティ』の元ネタになっている映画なんです。
そして、身勝手な男に振り回されたり傷付けられながらも立ち直り再起を果たす「強い女性」という特徴も、劇中のクレオと母親という2人の女性の姿を見ていたら後にキュアロン監督の様々な作品に登場する女性像に影響を与えてることも分かります。
「水」によって表現される「生と死」、からの「再生」は、あの終盤の浜辺での体験を見れば明らかですよね。
キュアロン監督の美しい映像はなぜ美しいのか、それは美しい出来事が収められているからこその映像だから。
こんな感じでね、キュアロン監督が過去の子供時代を振り返り「自分」というものを確認していくと、映画作家としての原点が詰まっていたんです。
その原点と現在の自分とのつながりを映画という1つの作品として表現したら、ちゃんと場面ごとに必要性を持って使われる「長回し」や、キリスト教的なモチーフや演出がそのまま重なる出来事の数々、登場人物たちの設定や葛藤など、結果的にはキュアロン監督の今まで映画でやってきたことの集大成と言える作品になったことが、この映画を特別な1本にしている部分だと思います。
おわりに
長くならないように紹介すると言ったのは何だったのか、というぐらい普通に長くなりましたね。 笑
それだけ中身の濃い映画だったということです!
この映画の最後に「リボへ」と、文字が出てきます。
大人になったアルフォンソ・キュアロンからの最大限の敬意と愛が込められた作品だと思います。
タイトルの『ROMA/ローマ』、原題はそのままの『ROMA』ですが、おそらく、それは住んでいた場所のコロニア・ローマ地区からきているだけじゃないと思うんですよ。
ROMAは逆から読むとAmor/アモール、「愛」という言葉になり、この映画を観た人なら単なる男女の愛という以上にとても大きな意味の「愛」が描かれている作品なのは分かりますよね。
そして、ROMAという一言の言葉が持つ、語感と言ったらいいのかなんというか、リボさんに向けて「あなたは私達の家族であり、あの頃のROMAは共通の我が家(ホーム)」みたいなニュアンスも感じて、とてもしっくりくるタイトルだと思います。
どうでしょうか、こうやってアルフォンソ・キュアロン監督自身のことや込めた想いを紐解いていくことが、そのままこの『ROMA/ローマ』という映画を理解する1番の近道というのが分かってもらえたかと思います。
それぐらい監督の個人的な映画、その個人的な想いに対して本当に真摯に作られていたならば、その中心となる大事な部分は監督と思い出を共有していないはずの僕ら観客にも不思議と国境や人種を超えて必ず伝わってくるものがるんですよ。
それは凄いことですよね。
こういうタイプの映画もあって、そういうパーソナルな映画でしか辿り着けない鑑賞後の余韻、つまり楽しさというのもある。
これは普通の娯楽作品の瞬間的な楽しさとは全く違うタイプの感覚です。
そしてその余韻や楽しさを味わうためには、ある程度観る人の前のめりな姿勢が必要だということ、向こうからやって来ることは無いんです、まさに自分から辿り着いていくようなつもりで映画鑑賞するときっと味わえるんじゃないかと思います。
まあ、そんな感じのことを収穫にしてもらえれば幸いですね。
あと、観た人の誰もが印象に残る棒を振り回しながら棒が振り回されるという男性的マチズモが滑稽に描かれた名シーンもあるんで、楽しんで下さい。笑
あと、Netflix配信作品なので、Netflixに契約してる人は誰でも今すぐ観ることができますよ!
ただ、注意点として、元々この映画では外国語で地味でモノクロということで劇場上映だとアメリカでは上映してくれる劇場が少ないだろうと考えて、より多くの人に観てもらえる環境を求めてNetflix配信という形にしたみたいです。
しかし、皮肉なことに映画館でとても似合う作品になってて、Netflixで観た後にアカデミー賞のタイミングで日本でもラッキーな事にちらほら劇場公開をしていたので観賞したんだけど、映画館で観る『ROMA/ローマ』はめちゃくちゃ良いです。
だからNetflixとはいえ、なるべく集中できる環境で観た方が良いと思います。
あと、モノクロなので部屋は絶対に暗くした方が良いです!